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信康家臣の中枢が画策した「大岡弥四郎事件」

史記から読む徳川家康⑳

 同年46日、武田軍撤収の間隙をついて、家康は遠江の犬居城(いぬいじょう/静岡県浜松市)に攻めかかっている(『三河物語』『創業記考異』)。しかし、大雨などで手こずり、城攻めは失敗。多くの兵が命を落とした(『三河物語』)。

 

 同年53日、謙信が自領を脅かすことはないと判断した勝頼は、25000の軍勢で甲斐(現在の山梨県)を出発(『甲陽軍鑑』)。遠江侵攻を再開した。同月12日には高天神城(たかてんじんじょう/静岡県掛川市)攻めを開始している(『大須賀記』)。城主の小笠原氏は、家康に援軍を要請した。

 

 同月16日、家康は信長に高天神城の援軍を依頼。自身で城への援軍を出さなかったのは、信長からの援軍が到着するのを待つつもりだったようだ。

 

 同年65日、信長のもとに高天神城が武田軍に攻撃されている知らせが入る。高天神城支援のために、信長は一揆に対する備えなどを指示(「高尾宗豊氏文書」)した上で、同月14日に嫡男・信忠(のぶただ)とともに岐阜城を出発した。同月17日には、家康の家臣である酒井忠次の守る三河(現在の愛知県東部)の吉田城(愛知県豊橋市)に着陣している(『信長公記』)。

 

 ところが、同日頃に高天神城が陥落(「武州文書」)。

 

 同月19日に進軍途中だった織田軍が高天神城陥落の知らせを受けたため、吉田城に撤退。信長に来援の礼を述べに家康も吉田城に駆けつけている(『信長公記』)。なお、高天神城の落城を翌月2日とする記録もある。

 

 同年81日、家康は遠江の馬伏塚城(まむしづかじょう/静岡県袋井市)の修築を開始。高天神城に備えたもので、家臣の大須賀康高(おおすがやすたか)を守将として城に入れている(『家忠日記増補追加』)。

 

 翌1575(天正3)年215日には、井伊直政(いいなおまさ)が浜松で家康の家臣となる(『寛政重修諸家譜』)。

 

 同月28日、家康は長篠城に奥平信昌(おくだいらのぶまさ)を置き、500の兵を委ねて城の修築を命じた(『当代記』)。

 

 なお、同年3月に信長は上洛(『兼見卿記』)しているが、同月16日に、桶狭間の戦いで滅ぼした今川義元(いまがわよしもと)の息子である今川氏真(いまがわうじまさ)と対面している(『信長公記』)。

 

 同年45日、家康の嫡男・信康の拠る岡崎城(愛知県岡崎市)で大岡弥四郎の謀反が発覚(『三河物語』)。勝頼を足助城(あすけじょう/愛知県豊田市)から岡崎城に引き入れようとしていたらしい(『松平記』『岡崎東泉記』)。

 

 事件は山田八蔵の密告によって発覚したという(『岡崎東泉記』)。主犯とされた弥四郎は、算術に長けた者だったようで、勘定方として腕を振るっていたらしい。有能な人物で家康や信康からの信頼も厚く、そのために驕(おご)りたかぶったという評価もある(『東武談叢』)。そんな弥四郎に科された刑は、岡崎の町に生きながら埋められ、通行人に竹鋸(たけのこぎり)で首を引かせるという残忍な見せしめ刑だった(『三河物語』『東照宮御実紀』)。

 

 この謀反で切腹した者の中に、石川春重(いしかわはるしげ)の名が見られるとする研究がある。春重は信康の傅役兼家老である譜代重臣・平岩親吉(ひらいわちかよし)に並ぶ重臣で、石川数正の同族でもある。

 

 つまり、岡崎城で起こった謀反は信康家臣の中でも、かなり中枢にいる人物たちによって画策されたということになり、徳川家にとってかつてないほどの衝撃だったといえる。なお、春重の切腹は大岡弥四郎事件の4年後である天正7年だったとする説もある。

 

 岡崎城乗っ取りの計画が失敗に終わったことを知った勝頼は、吉田城に向かっている。この城が徳川領地の東西をつなぐ重要拠点と見なしたためだ。

 

 同月29日、家康は勝頼が吉田城への途上にある仁連木城(にれんぎじょう/愛知県豊橋市)を攻撃している間に、吉田城に入城(『三河物語』)。小競り合いを経て、吉田城を落とすのは難しいと判断した勝頼は、攻撃の矛先を長篠城に変更。

 

 こうして、武田軍15000の兵が長篠城を取り囲んだ。同年51日のことだった(『当代記』)。

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小野 雅彦おの まさひこ

秋田県出身。戦国時代や幕末など、日本史にまつわる記事を中心に雑誌やムックなどで執筆。近著に『「最弱」徳川家臣団の天下取り』(エムディエヌコーポレーション/矢部健太郎監修/2023)、執筆協力『歴史人物名鑑 徳川家康と最強の家臣団』(東京ニュース通信社/2022)などがある。

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